愛を。

看護師ケアマネ。愛すべき利用者との関わりをちょっぴりフィクションほぼノンフィクションで。(記事の編集を随時行っています)

引き受ける人

敬虔なクリスチャンであるその一家は、極々普通の家族。

何故引っ越してきたのか詳しくは聞かなかったが、数年経った頃思いもかけぬ理由でこちらに来たのだと知った。

担当である利用者の妻は高齢にも関わらず、これまで働く娘の代わりに家事を担ってきた。この頃は多少の物忘れも出てきたが、お花を植える優しい人。

口数の少ない夫の代わりに、私によく話をしてくれた。

その日は何故か引っ越してきた理由を話し始めた。

娘が結婚する際、夫に持病があったが、その時は落ち着いていた。しかし結婚後徐々に悪化し、家族に暴力を振るうようになった。

子ども達はトイレに隠れていることも。

子どもをそっとお使いに出したりすることもあったと。

お使いが終わったら隣のおばちゃんの家に行っていなさいと。

ある時その夫の主治医が言った。

「今、逃げなさい。皆で遠いところに逃げなさい」と。

それで身内のいるこの土地に。

人の悪口も言わず、ご近所の方ともすぐ仲良くなり、争いのない穏やかな優しいこの家族にこんな苦しい過去があったなんて。

 

クリスチャンだと知ってしばらくして、宗教をしている人にいつか聞いてみたいと思っていたことを聞いてみた。この人ならと。

宗教を持っていることによって子育てにどんな影響があったと思いますか?

何が良いと思われますか?

「子どもが家族や学校以外に行くところ、よりどころがあったのが良かったと思う」。

勧誘が当たり前のような宗教もありますが?

「宗教は誘うものではない。個人の問題だから。自分だからね」。

その人達を見ていると、宗教も悪くないと思える。

しかし、親がしている宗教をそのまま子どもが信心していくのはどうだろう。

他の宗教を知らず学ぶこともなく。だって親=子どもじゃない。

選べない、選ぶことができない引かれたレール。

疑問を持たないことが既に幸せということか。

その質問はできなかったが・・・

 

人にやさしく人の悪口を言わず、争い事を好まず人を恨まず妬むこともせず、正直に生きてきただろう者達は、その人生のどこかで、ある厄介なモノ、を引き受けることになるのかもしれない。

慈悲の心に入り込んでくる厄介なモノ。

 

物語は続く。

あなたは、私は、この先どんなモノを引き受けていくのか。

物語は続く。

 

 

 

 

 

働く人・働けない人・働かない人

 

人は、働く人と働かない人に分けられる。

働かない人の中には、働きたくても働けない人と、働くことは出来るが働くのを止めた人がいる。

何を持って働くのかと考え出すと難しいので、ここでは単に「労働」としよう。

労働とは、1.からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと。「工場で―する」「時間外―」「頭脳―」

2.経済学で、生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費。

 

私はこれまで何一つ病気をしたことがないということは無いが、何とかこれまで働けるだけの肉体と精神を持ち続けられてきたんだろう。

それはたまたま偶然の賜物だったのかもしれない。

鬱の扉を開けなかっただけ、

癌ができても知らないうちに消えてたのかもしれない。

または、癌が今身体の中にあるが、たまたまおとなしくしているだけなのかもしれない。

そして、私が働くのは私自身のため。

誰かのために働いているわけではないし、誰かに感謝されたくて働いているわけじゃない。

働くということはそういうこと。

 

彼の母親を担当することになり、彼と初めて会ったのは、彼自身を苦しめていた父親が亡くなった後だった。

彼はいつの頃からかわからないが、父親に怒られ貶められて育った。彼に会って当時父親は何とかこの子をどうにかしなければと思っていたのかもしれないと思ったが、それにしてもその父親が無知だったとしか思えない。明らかに何らかの障がいを持っているだろう息子。それなりの公的機関に相談したら、父親も納得して接することができたんではないか。怒ったり叩いたりしても、何も解決しなかっただろうに。

母親はそんな息子をずっとかばってきた。

その母親が認知症となったため、父親から解放されても日常生活が滞りなく継続できるのか心配された。

しかし、近所に住む叔母が何かと気にかけ、協力もあるようだった。

そんなある日、「お金がないので生活保護を受けようと思います」と彼から電話があった。

「でも車を持ってたらダメなんでしょう?」と。

いやいやいやいや、その車叔母さんのでしょ。

たまに借りるぐらい、持ってないで良いんですよ。

「あーそうなんですか」と安堵した声。

息子がベンツ乗ってる保護受給者もいるのに。

勿論難なく保護の対象となり、支給が始まった。

そんな彼なので、的の外れた質問をしてきたり、一般的なこの年齢の成人男性の会話とは少し様子が違っていたが、それは彼の素直さだったり純真さだったりで。

いつの間にか私に対する警戒心が全く無くなり、いつもニコニコしている彼。

でもずっと訪問していると、何か引っかかるものが…

もしかして、何か宗教してます?

「はい、〇〇です。良いですよ〜」。

 

保護が始まり安心していたのだが、そのうちまた「お金が足りない」と電話してくるようになった。

「携帯代が高いのでどうしたら良いですか?」。

「オムツが足りないんです。どうしましょう?」。

「病院が送迎が無いのでどうしたら良いか」。

 

携帯は携帯会社に相談して下さい。

高齢者福祉サービスで受けているオムツ給付は足りない場合は自費で購入して下さい。

そこの病院から家までワンメーターですけど?それも無いんですか?

とストレートの質問も彼にはできる。

往診という形に変えることはできますよ。

 

とにかく、保護費を増やして貰いたかったようだった。

オムツは1日2回しか変えないからいつも漏れていた。

これまでずっとかかっていた主治医だったので、息子のことも良く分かってもらっていたし、結局彼も病院は変えなかった。

お金が足りない…

その宗教の場所に行くには電車賃が必要で、本部?は他県にあるようだった。 ネットで調べてみた。 調べなくても彼に聞けばもっと詳しく喋ってくれる…

部屋の壁に筆ペンで書いた戒律がある。

「これがなかなか守れないんですよね〜」。

うん、守れなくても良いからオムツ変えてくれない?

1日2回とかあり得ないよ?

デイの食事代払いたくないからって、デイを休ませてませんか?

お母さんにとって唯一の社会的交流の場を取り上げないでくれや〜

お母さんの介護に必要なお金まで何処ぞやの宗教に注ぎ込まないでくれや〜

と心の中で呟く。

彼も幸せになりたくて、信心しているんだろう。

勿論多くの宗教で信心している末端の殆どの人々の暮らしは質素です。

彼も同様です。

保護課の担当者に電話。

「年金が多いので保護費は全額は出ていない」。

 

働く人は働けば良いし、何らかの理由で働かない人は働かなくて良いと思う。

働かない人の多くはきっと働けないんだろうと思う。

でもね、公的なお金の使い道はまずは生活や介護が優先されるべきなんじゃないかな?

でも、宗教が生活の全てだったら?

同居する者の意志が不確かな場合は?

ネグレクトまでいかないにしても、信心深さが守るべき弱者を後回しにしてしまっていませんか?

 

人は何かを信じすぎると、かえって何かを見失なってしまうのではないか。

私は私の感覚を信じていきたい。

心の声が行き先を教えてくれる。

 

 

迷える人

息子は優しい。

そして妻より母を選ぶ。

というケースは比較的多いように感じる。

現に、突然相談したいことがあるとやってきた長男は心の中の迷いを吐露し、私の一言でホッとし帰って行った。あと1週間そこらで有料老人ホームに入居することが決まっていたのにも関わらず、本当にこれが正しい結論なのか、迷っていたのだ。

相談室から戻った私を他のケアマネが、「息子さん優しいですね~もしかしたら独り者か離婚されているかどっちかなのでは?」と図星の質問。

他のケアマネもこういったケースをよく経験しているのだ。

 

長い長い独居生活。

その間一緒に暮らしていた猫も死んでしまいました。

それでも何とかさみしさと闘い頑張ってきましたが、ここ数年は物忘れも多くなりましたね。

私が訪問する度に、「もう忘れてしまって、もうこの家では暮らせないかなと思います。施設に入らないといけないかなと思います。でも施設に入ったらもっとボケるよって息子が入れてくれないんです」と笑って言っていました。

私が毎回、「ヘルパーさんの来る日や時間や、わからない時はちゃんと自分で電話をかけれるし、自分でトイレも行けるし、自分でご飯も食べることができるし、まだまだお家で暮らせると思いますよ」と言うと、「あーそうですか。そう言ってもらえると本当にうれしいです。まだ大丈夫ですか。自信がつきます」と笑顔でした。

そして、「この家で死にたいです」と言っていました。

 

でも家で死ぬのは簡単じゃない。

この夏、脱水や栄養不良で入院すること数回。

そこで以前から時々出ていた老人ホームへの入居が現実味を帯びてきた。

毎週末泊まって何とか独居生活を支えてきた息子であったが、他のきょうだいと相談し、あちこちの施設見学を始められた。

ケアマネは施設紹介はできるが最後の決定権は家族にある。

私が本人と会うのをためらっていると(私の顔を見ると家に居たいと言われるんじゃないかと思い電話も躊躇していた)、本人から電話があった。

この日は、「今日はヘルパーさんが来る日じゃなかったですか?」でも、「掃除は何曜日でしたっけ?」でもなく、彼女の決意表明だった。

「私施設に入ります。もうご飯も作れないし(何年も前から作っていないが)、そこにあっても食べてなかったり飲んでなかったり、栄養失調ですって。だから入ろうと思っています。その方がいいと思って」。

私は、「そうですね、その方が安心ですね。子どもさん達も心配されていましたもんね。今から会いに行っていいですか」。

 

決まってからも息子さんは悩んでいた。

本当にこれが正しい結論なのか。

自分が楽をしようとしてこうしたんじゃないか。

と自分を責め続けていた。

私はきっぱりとこう言った。

「この時期この判断はお母さんにとってベストです。悩まれるのは当然です。何が正しいのか誰にもわからない。ただこの数ヶ月間を見ていてこれ以上の独居は厳しい状況だった。それは本人もわかったはず。だから私に電話をかけてきたのです。自分にとっての安心、家族にとっての安心は家に居続けることではないと自分でわかったんだと思います。一生施設から出れないわけではない。週末など連れて帰れるのであれば連れて帰って良いし、そうやって施設に徐々に慣れていけば良いんじゃないですか」。

真正面から私を見据えていた息子は即座に、「わかりました!そうします!そうですね!」と言った。

自分に言い聞かせるように。

人は相談した時には既にその答えは自分の中に持っているという。

彼も私に言って欲しかったのだ。

「あなたは悪くない」。

どうして親を施設に入れることに罪悪感を感じるのか。

姥捨て山の遺伝子の残り?

この長生きの時代、家族の精神的・身体的介護負担は大きい。

在宅が困難になる時期は必ず来る。

その時に家族の関係性が大きく影響する。

あっさり賛成した娘達をよそに息子は1人迷っていた。

 

人はいつもいつの場面でも必ず自分が選んで今を生きている。

正しいか正しくないか、そこに留まることが必ずしも意味を持つとは限らない。

しかし、人はぐるぐると答えの出ない問答を繰り返し、誰かに言って欲しいのだ。

「あなたは間違っていない」と。

 

優しい息子。

親孝行の息子。

母を選んだことに迷いがなかったのかわからないが、人は幸せになるために選んで生きていると思うので、これが彼のベストなのだろう。

幸せも、生き方も、自分で決めているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒る人

怒る・怒鳴る人はそこそこいらっしゃいますが、中でもダントツで記憶に残っている人が彼女です。

彼女のことは、彼女の父親を最初に担当し、うっすらとその存在を知り(介護協力は無かったので)、その後母親の担当になり強烈な印象を残しました。

残したと過去形になっているのは、既に彼女はこの世には居ないからです。

 

父親を亡くし、その後母親を亡くし、家主の居なくなったその家を通る度、私は彼女の孤独を思い出します。

 

私は死んだ人のことをよく考えます。

知り合いだけではなく、会ったこともない幼くて死んだ子どもや理不尽な死に方をした女・子どものこと、ありありとその情景が浮かぶこともあります。それが決して正しい情景なのかはわかりませんが。

彼女のことも、白い部屋の中でたった一人で死んでいったのだろうか。

その時彼女の心の中の怒りは無くなっていたのだろうか。

彼女が死の間際で少しでも救われていて欲しいと想像する。

 

あの時こうすれば良かったとか、もっとこうすれば良かったという感情ではない。

ただ彼女の悲しみや苦しみを感じるのです。

 

母親から一本の電話がかかってきた。

「どうやらあの子も癌になったようだ」。

母親も闘病中なのに娘まで・・・

私を含め、母親の介護サービス事業者のスタッフも皆心配した。

彼女はこれまで定職に就けず、母親が入院していた病院でもトラブルを起こす、退院前カンファレンスでは、皆が集まっている部屋を覗いた途端、「聞いていない」と烈火のごとく怒り帰ってしまった。

MSWは勿論説明していただろうし、聞いていなかったとしても退院前の大事な話し合いということは理解しなければいけないはず。

そんな、子どものような三十路の娘を母親はきっとかばって生きてきたのだろう。

「あの子は父親そっくり。すぐ怒って始末が悪い。怒り出したら止められない。こっちが謝るしかない。何も言えない。金のことばかり心配する。看護師さんにお礼をしたと言うといくらしたのかしつこく聞いてくるし」と言っていた。

 

そんな娘が私に当たり散らした、突然。

家に行った時のこと、「お前なんか私とおんなじ病気になればいい!癌になれ!私と同じように苦しめばいい!」延々と発せられる汚い言葉、恐ろしい顔。

母親はその隣で申し訳なさそうに小さな声で、聞こえないくらい小さな声で、「なんてこと言うの、そんなんじゃないでしょうが」と言っている。

その言葉を耳にした娘は更に怒号を浴びせる。

あまりにも理不尽で、あまりにも突拍子もないその光景に、私は半ば唖然とし、何も、と言っていいくらい感情が停止。

むしろたまたま居合わせた訪問看護師に対して、気まずいだろうなと思った。

あまりにも一方的で怒号が止む気配がなく、私が退散するしかないなと思った。

「逃げるのか!」と言われた。

何か反論した方が良いだろうかと考えたが、正論をぶつけてもあなたの気持ちは収まらないでしょうと心の中で思った。

これ以上自分を傷つけてほしくなかった。

これまで彼女との関係性をできるだ良好に保ちたいと思っていた。

しかし相手のコミュニケーション力によっては、きっと限界というものがあるのだろう。

 

怒りの矛先は本当は私ではなかった。

本当のナイフは自分自身に向けられていたから。

彼女の発した言葉はそのまま自分を傷つけ血だらけにしていった。

 

でももしかしたら、緩和病棟の1人の看護師に心を許し、彼女の中の怒りが消えていたとしたら・・・

白い孤独な部屋の中でも誰も側に居なくても、怖くなんか無かったでしょう?

 

 

 

 

 

 

脅す者

彼は偉大なる父の影に怯え、永遠に虚構の世界で生き続ける。

 

「問題のあるケースである」と役所からの依頼。

初回訪問の面談は長時間に及び、彼の独特な言い回し、威圧的な態度を存分に振り回し、お役所仕事的な対応を嫌っていることがわかった。

母親と2人暮らし。

亡くなった父親は立派な会社に勤めていた。

彼がどんな愛情を受けて両親に育てられたかはわからないが、相当の期待をされて幼少期を過ごしたのだろうと彼の話から推測された。

多分そんな期待に応えられなかったのだろう。

彼の話はどこまでが本当でどこまでが作り話なのか、いやほとんどが嘘だったんだろうと思う。

定職に就かず(就けないと思われる)、アルバイトをしているようだが、それも不確かだった。

話している時の視線はいつも泳いでいて、段々ボルテージが上がってくると眉毛も吊り上がり、まるで物語を聞いているような気分になっていく。

話せば話すほど白々しく、嘘丸見えの呆れた内容もあった。

しかし、ケアマネとしてはただ淡々と粛々と向き合うことに努めた。

そんなある日電話があり、「相談があるからちょっと来て欲しい」。

どんなことだろうかと想像しながら(これまでヘルパーやデイへの不満や苦情が度々あっていたから)すぐに訪問すると、

「お金を貸して欲しい、1万円で良いから」。

息子と2人切りの部屋の中、突然のことで心臓がどきどきしてきた。

私の鞄の中には1万円入っている財布があった。

彼はいろいろと言い訳をし、何とか貸してもらおうと必死になり、眉毛が吊り上がってきた。

ケアマネは日頃から、いつでも何でも相談してくださいね、と伝えている。

そう言うことで利用者・家族は安心でき、困った時に思い出してもらえるから。

しかし、こんなことに使われようとは・・・

私が貸そうとしないため、挙句には「5千円で良いから」と言ってきた。

それを聞いた途端、私は彼の弱さを感じ取った。

どんなにすごまれても脅されても、やはり貸すことはしてはいけないと確信した。

一時的に彼が助かることがあっても、あくまでも一時的。

この一回だけでは済まないだろう(病院などあちこちに滞納あり)。

当たり前のことだが、ケアマネと利用者の関係で、個人的なお金の貸し借りがあってはならない。

お金を貸すことが彼を助けることにはならないだろう。

もし本当に困っているならその父親の、育った環境のプライドを捨て、生活保護の相談に自ら行くべきだろう。

(遠く離れた妹さんも兄の存在に怯えていた)

 

ほどなく母親を送って来たデイの車の音がした。

私はホッとした。

彼は「このことは母には内緒に」と私を睨んで言った。

その後彼から金銭の要求は無かったが、そのうち誰も家に入れなくなった。

サービスを使うとお金がかかるので、自分で看ることにしたようだった。

そうなる前、母親本人に「入院したくないですか?」「お風呂入りたいでしょう?」と息子が席を外した瞬間尋ねて何とか家から出そうとした。

認知症が出始めた母親だったが、首を横に振り、「そういうわけにはいかないだろう。息子が、良いとは言わないだろう」と諦めているようだった。

まるで息子がこんな人間になったのは自分のせいだからもう覚悟している、諦めていると思っているように感じた。

訪問する時は必ず2人で訪問し、玄関を叩くが怒鳴って決して中には入れてくれない。

「お母さんの心配をしています」と言っても何も誰も、彼を動かすことはできなかった。

 

ケアマネのできることは少なく、それまでの家族関係・家族の歴史・育った環境が変わるような大きな影響力もない。

 

とかく人は悲しくて愛おしいと思う。

 

本当に欲しいモノが何なのか。

自分の心の声が聞こえなくなって、自分を知ることもできなくなって、人を攻撃し貶めることによってしか、自分が存在し続けられなくなってしまう。

 

彼の真実がどこにあったのか。

 

母親が亡くなって1人になった彼は、自分を赦し自分の心が見えただろうか。

 

 

 

 

 

忘れる人

神様は認知症という素敵な贈り物をした。

 

長生きのご褒美です。大事なことも忘れますが、年を取って何が大事なことなんてそんなにあるでしょうか。

嫌なこと、嫁にいじめられたこと、夫からされた仕打ち、息子に叩かれたこと、そんなことも忘れてしまい、ほら、『今』を生きているでしょう。

 

死ぬのが怖くないんですかと聞いた。

「ぜんぜん。でもなんか死なないような気がするのよね」と言った人。

「ぜんぜん。何にも怖くない。いつでもいいのにね」と言った人。

前者の利用者は、タクシーを呼びつけて迎えに来たら「呼んでない」ときっぱり。

毎朝うちの事業所に電話をかけ、「今日何日?」「今日何曜日?」と聞いた。

息子はそれでも「まだボケてはないと思うんですよねぇ」と言った。笑

後者の利用者は、訪問する度に何でもできていると言った。

「ご飯も炊くしね、味噌汁もちゃんと作るし、買い物だけはねしてもらっているけど。まだ手を取らないからね、外に出てウロウロするわけじゃないし、早くお迎えが来れば良いと思うけど、来てくれないからね。でもね、まだできるからね、ご飯もちゃんと炊くしね・・・」を延々と繰り返す。

ご飯も炊かなくなってだいぶ経つのだが、できていた頃の自分に留まっている。

良かった時代に留まっていられるって幸せかも。

反対にできなくなった自分を受け入れらず苦しんでいる人もいる。

老いを受け入れるって、その人の生き方のセンスによるのかな。

 

私たちは子どもの頃、人に迷惑をかけてはいけませんと教えられて育ったと思う。

なのでできるだけ人に迷惑をかけないよう生きてきたのではないか。

人に甘えたりせず自分で何とかしなければと。

しかし、年を取ると誰もが人の手を借りなければ生きてはいけない。

若い人でも途中で何らかの障がいを負うかもしれない。

私達はたまたま今は健康な身体を与えられ、働いて生産し社会を回しているつもりの役割となっているだけ。

もしかしたら、あなたは私かもしれないし、私はあなたかもしれない。

 

「長生きし過ぎた」と言う老人に私はちょっぴり違和感を感じてしまう。

老い支度はあるだろうが、自分が何歳頃死ぬか予想しながら生きることができる人がいるのだろうか。

勿論癌などの余命とは別に。

命は自分の意志で終わらせることはできない。

これ位生きたからもういいだろうということはないのではないか。

死ぬまで生きるしかないのではないか。

死ぬまでにしておかなければならないことを1日1日考えて過ごすしかないのではないか。

 

人は認知症にでもなられなければ人の手を借りているという屈辱に耐えられないようになったのかもしれない。

暴言や暴行、認知症の周辺症状が強い人は自分でもどうしようもないのだろう。

そもそも介護や世話を受ける=屈辱的なこと、の観念はおかしいが。

介護保険という制度は契約の概念なので、サービスを受けるのは当然の権利である。

 

大切な人があなたを忘れてしまっても、悲しむ必要はありません。

あんなにしっかりしていた母が、と悲しむことはありません。

大切な人がどんな形相になっても、どんな粗相をしても、その全てがその人なのですから。

怒っても良いし、なじっても良いと思う。 それは当たり前の感情だと思う。

でもそんなやり取りの中でも愛おしい気持ちになる一瞬も確かにあるはず。

それだけで十分なのでは。

1日1日人は変化している。死に向かって。

元には戻れない。

そして皆同じように灰になる。

 

忘れるって素敵なこと。

 

 

 

 

拒絶する人

生きることを拒否した人は、孤独を貫き最期を迎える。

 

利用者の妻が倒れ入院が長引き、介護の認定を受けている夫は在宅での生活が難しくなった。

いやサービスを受けてくれたら何とか在宅は可能なのだが・・・

ショートステイ先では暴言を吐き、早々に帰された。

配食サービスを断り、ヘルパーを断り、すっかり引きこもった。

他市に住む娘は、1週間に1回程度訪問し世話をしているようだが、父と娘の関係は良好とは言えない様子だった。

それでも玄関を開けてくれ、中に入ることが できる日もあった。

散らかっている部屋を、ヘルパーが来て片付けますよ、転んだらいけないからですね、と言ってみる。

のらりくらりと返事をかわし、なかなかそれ以上踏み込むことができない。

「死にたい」「死んで良い」と言った。

妻が退院したらまた元のような生活が送れるのだから、それまで何とか困らないようにお手伝いできることがありませんかと何度も伝えた。

 

近所との付き合いも妻しかしていなかったので、民生委員さんに話しても「旦那の顔も知らない」と言われる始末・・・

地域との繋がりは、妻が入院した途端分断されたのだ。

そもそも私たちは確かに『個』であるはずなのに、夫婦になり家族ができると、その繋がりを誰か自分以外の者が行っているということを忘れてしまう。

そもそも彼は結婚しても家族ができてもそこに住んでいてもずっと孤立していたのだ。

仕事をしている間だけは社会との繋がりがあったのだろう。

 

いつの日かは中から大声で怒鳴り、「帰れ!迷惑だ!」と言った。

そのうち玄関を叩いても大声で呼んでも、全く出てこなくなった。

戸の隙間から動くのが見えたり、大声を出してくれるときはまだ良かった。

家の周りで蚊に刺されながら、どうしたら良いのかわからなかった。

包括支援センターに相談しても、何の解決の糸口も見えなかった。

娘に相談しても「父を説得することはできない。父の好きなようにさせる他ない。行ってくれてありがとうございます」と言われた。

死にたいと言っていたと伝えた。娘は知っていると言った。

 

ある日の朝、娘から「父が死んでいました」と電話があった。

娘は意外ではなかったようだったし、動揺もしていなかった。

私は深くは聞かなかったが、理解した。

私はケアマネとしてできることはやったと思うし悲しさも無かった。

人間は死ぬ権利もあると思う。

しかし、どうして死ななければならなかったのかと考える。

どうしてそれほどまでに人を拒否し、社会を拒否し、生きることを止めたのだろう。

彼の人生を、彼の生き方を想う。

人生の途中、終盤に差し掛かったところで出逢ったケアマネが、その人の人生や生き方を計り知ることはできないかもしれない。

しかし、生きることは元々苦しいことなのだ。

死ぬまで生きることは元々苦しいことなんですよ。

 

でも彼は死にたかった。

 

孤独死と言われて久しいが、サービスや行政の介入を拒否し、亡くなる方には1日でも早く発見してやることしかできないと思う。

それこそ多くの方が知らないだけで、あなたのすぐ近所で人の形にウジ虫が群がっている状態で発見されることもあるのです。

 

人から手を差し伸べられてもその手を振り払う、それもその人が選んだ生き方なのだと尊重されるべきなのかもしれない。

人を拒絶する人は死んだ後なんて知ったことかと言う。

しかし、ウジ虫が群がるその亡骸を片付けるのはやはり人の手を借りるしかないし、しかも社会的弱者と言われる人達(知的障がい者等)があなたの身体を家の中を片付けてくれるのです。

 

人は死んだ後も人の世話になるのです。どんなに拒絶しても。