愛を。

看護師ケアマネ。愛すべき利用者との関わりをちょっぴりフィクションほぼノンフィクションで。(記事の編集を随時行っています)

忘れる人

神様は認知症という素敵な贈り物をした。

 

長生きのご褒美です。大事なことも忘れますが、年を取って何が大事なことなんてそんなにあるでしょうか。

嫌なこと、嫁にいじめられたこと、夫からされた仕打ち、息子に叩かれたこと、そんなことも忘れてしまい、ほら、『今』を生きているでしょう。

 

死ぬのが怖くないんですかと聞いた。

「ぜんぜん。でもなんか死なないような気がするのよね」と言った人。

「ぜんぜん。何にも怖くない。いつでもいいのにね」と言った人。

前者の利用者は、タクシーを呼びつけて迎えに来たら「呼んでない」ときっぱり。

毎朝うちの事業所に電話をかけ、「今日何日?」「今日何曜日?」と聞いた。

息子はそれでも「まだボケてはないと思うんですよねぇ」と言った。笑

後者の利用者は、訪問する度に何でもできていると言った。

「ご飯も炊くしね、味噌汁もちゃんと作るし、買い物だけはねしてもらっているけど。まだ手を取らないからね、外に出てウロウロするわけじゃないし、早くお迎えが来れば良いと思うけど、来てくれないからね。でもね、まだできるからね、ご飯もちゃんと炊くしね・・・」を延々と繰り返す。

ご飯も炊かなくなってだいぶ経つのだが、できていた頃の自分に留まっている。

良かった時代に留まっていられるって幸せかも。

反対にできなくなった自分を受け入れらず苦しんでいる人もいる。

老いを受け入れるって、その人の生き方のセンスによるのかな。

 

私たちは子どもの頃、人に迷惑をかけてはいけませんと教えられて育ったと思う。

なのでできるだけ人に迷惑をかけないよう生きてきたのではないか。

人に甘えたりせず自分で何とかしなければと。

しかし、年を取ると誰もが人の手を借りなければ生きてはいけない。

若い人でも途中で何らかの障がいを負うかもしれない。

私達はたまたま今は健康な身体を与えられ、働いて生産し社会を回しているつもりの役割となっているだけ。

もしかしたら、あなたは私かもしれないし、私はあなたかもしれない。

 

「長生きし過ぎた」と言う老人に私はちょっぴり違和感を感じてしまう。

老い支度はあるだろうが、自分が何歳頃死ぬか予想しながら生きることができる人がいるのだろうか。

勿論癌などの余命とは別に。

命は自分の意志で終わらせることはできない。

これ位生きたからもういいだろうということはないのではないか。

死ぬまで生きるしかないのではないか。

死ぬまでにしておかなければならないことを1日1日考えて過ごすしかないのではないか。

 

人は認知症にでもなられなければ人の手を借りているという屈辱に耐えられないようになったのかもしれない。

暴言や暴行、認知症の周辺症状が強い人は自分でもどうしようもないのだろう。

そもそも介護や世話を受ける=屈辱的なこと、の観念はおかしいが。

介護保険という制度は契約の概念なので、サービスを受けるのは当然の権利である。

 

大切な人があなたを忘れてしまっても、悲しむ必要はありません。

あんなにしっかりしていた母が、と悲しむことはありません。

大切な人がどんな形相になっても、どんな粗相をしても、その全てがその人なのですから。

怒っても良いし、なじっても良いと思う。 それは当たり前の感情だと思う。

でもそんなやり取りの中でも愛おしい気持ちになる一瞬も確かにあるはず。

それだけで十分なのでは。

1日1日人は変化している。死に向かって。

元には戻れない。

そして皆同じように灰になる。

 

忘れるって素敵なこと。