愛を。

看護師ケアマネ。愛すべき利用者との関わりをちょっぴりフィクションほぼノンフィクションで。(記事の編集を随時行っています)

迷える人

息子は優しい。

そして妻より母を選ぶ。

というケースは比較的多いように感じる。

現に、突然相談したいことがあるとやってきた長男は心の中の迷いを吐露し、私の一言でホッとし帰って行った。あと1週間そこらで有料老人ホームに入居することが決まっていたのにも関わらず、本当にこれが正しい結論なのか、迷っていたのだ。

相談室から戻った私を他のケアマネが、「息子さん優しいですね~もしかしたら独り者か離婚されているかどっちかなのでは?」と図星の質問。

他のケアマネもこういったケースをよく経験しているのだ。

 

長い長い独居生活。

その間一緒に暮らしていた猫も死んでしまいました。

それでも何とかさみしさと闘い頑張ってきましたが、ここ数年は物忘れも多くなりましたね。

私が訪問する度に、「もう忘れてしまって、もうこの家では暮らせないかなと思います。施設に入らないといけないかなと思います。でも施設に入ったらもっとボケるよって息子が入れてくれないんです」と笑って言っていました。

私が毎回、「ヘルパーさんの来る日や時間や、わからない時はちゃんと自分で電話をかけれるし、自分でトイレも行けるし、自分でご飯も食べることができるし、まだまだお家で暮らせると思いますよ」と言うと、「あーそうですか。そう言ってもらえると本当にうれしいです。まだ大丈夫ですか。自信がつきます」と笑顔でした。

そして、「この家で死にたいです」と言っていました。

 

でも家で死ぬのは簡単じゃない。

この夏、脱水や栄養不良で入院すること数回。

そこで以前から時々出ていた老人ホームへの入居が現実味を帯びてきた。

毎週末泊まって何とか独居生活を支えてきた息子であったが、他のきょうだいと相談し、あちこちの施設見学を始められた。

ケアマネは施設紹介はできるが最後の決定権は家族にある。

私が本人と会うのをためらっていると(私の顔を見ると家に居たいと言われるんじゃないかと思い電話も躊躇していた)、本人から電話があった。

この日は、「今日はヘルパーさんが来る日じゃなかったですか?」でも、「掃除は何曜日でしたっけ?」でもなく、彼女の決意表明だった。

「私施設に入ります。もうご飯も作れないし(何年も前から作っていないが)、そこにあっても食べてなかったり飲んでなかったり、栄養失調ですって。だから入ろうと思っています。その方がいいと思って」。

私は、「そうですね、その方が安心ですね。子どもさん達も心配されていましたもんね。今から会いに行っていいですか」。

 

決まってからも息子さんは悩んでいた。

本当にこれが正しい結論なのか。

自分が楽をしようとしてこうしたんじゃないか。

と自分を責め続けていた。

私はきっぱりとこう言った。

「この時期この判断はお母さんにとってベストです。悩まれるのは当然です。何が正しいのか誰にもわからない。ただこの数ヶ月間を見ていてこれ以上の独居は厳しい状況だった。それは本人もわかったはず。だから私に電話をかけてきたのです。自分にとっての安心、家族にとっての安心は家に居続けることではないと自分でわかったんだと思います。一生施設から出れないわけではない。週末など連れて帰れるのであれば連れて帰って良いし、そうやって施設に徐々に慣れていけば良いんじゃないですか」。

真正面から私を見据えていた息子は即座に、「わかりました!そうします!そうですね!」と言った。

自分に言い聞かせるように。

人は相談した時には既にその答えは自分の中に持っているという。

彼も私に言って欲しかったのだ。

「あなたは悪くない」。

どうして親を施設に入れることに罪悪感を感じるのか。

姥捨て山の遺伝子の残り?

この長生きの時代、家族の精神的・身体的介護負担は大きい。

在宅が困難になる時期は必ず来る。

その時に家族の関係性が大きく影響する。

あっさり賛成した娘達をよそに息子は1人迷っていた。

 

人はいつもいつの場面でも必ず自分が選んで今を生きている。

正しいか正しくないか、そこに留まることが必ずしも意味を持つとは限らない。

しかし、人はぐるぐると答えの出ない問答を繰り返し、誰かに言って欲しいのだ。

「あなたは間違っていない」と。

 

優しい息子。

親孝行の息子。

母を選んだことに迷いがなかったのかわからないが、人は幸せになるために選んで生きていると思うので、これが彼のベストなのだろう。

幸せも、生き方も、自分で決めているのだから。