動かなくなる人
ALSとは過酷な病気である。
日本でのALSへの呼吸器装着は2~3割と聞くが、自分だったらどうするだろう、身近にALS患者がいる場合、誰しもが考えてしまうことだろう。
私の担当していた利用者で、人工呼吸器を付けないと言い、亡くなった人がいる。
彼女は年下の夫と2人暮らし。子どもは居なかった。
地域の役員などを買って出る活発な女性だったようだ。
発症から確定診断がつくまで1年近くかかり、紹介された在宅診療の医師とは最期まで信頼関係を築くことができなかった。
当初から既に嚥下機能が徐々に低下してきており、いきなり医師から胃ろうを勧められる状態。
この病気はその人によって進行の速度も違い、身体のどこから動かなくなるか、人それぞれだ。
病気の説明を何度聞いても、すぐに納得できる人なんていない。
この病気は必ず進行し、やがては自分で呼吸ができなくなる。
最後まで残るのは瞬きと眼球だけ。
しかし最期まで意識ははっきりしており、認知機能は保たれる。
なので医師から残酷極まりない、と言わしめる難病。
当初から、医師に対しての不満や不信感が強い夫。
妻である本人が少しずつ言葉が出にくくなり、意思伝達装置の申請の手続きに入る。
難病を持つ利用者は、介護保険サービスに留まらず、障がい者福祉サービス利用の手続きなど、ケアマネの業務も多岐に及ぶことになる。
それが病気の進行が早ければ早いほど、医療者側からは次から次へと指示や提案が入るのだ。
本人・家族の気持ちは殆ど追いつかない。
だって『すぐ使わなくなるんでしょ』もっと悪くなると使えなくなるんでしょ、なのにお金払ってまでそれを今購入するんですか、という話になる。
しかし医療者側から言われると本人・家族はNOとは言いにくいもの。
で、ケアマネがすぐに対応しないと医療側からは「あのケアマネは動きが悪い」などと言われるようだ。フットワークが軽くない、ということか。
私は、医療者側から良いケアマネと言われるケアマネがそのまま利用者にとって良いケアマネであるとは思わない。
私にとって医療者側からの評価は全く関係ない。言いなりケアマネになるつもりはない。
しかしそうは言ってももしお金に余裕が少しでもあるなら、残された在宅生活を少しでも安全に安楽に過ごしてもらうための提案は必要である。
それが多少短い期間の利用になっても…
ポータブルトイレの購入後しばらくすると、頸部の筋力も低下してべッドからの移乗も危険になり、ベッド上でのオムツへの排泄を余儀なくされた。
デイサービスの職員にはベッドからの移乗・屋外への移動など大変頑張って貰った(近い将来利用できなくなることは間違いなく、夫の介護負担のためにもできる限り通所を希望)が、訪問入浴へ移行した。
夫は疲弊していた。
酒を飲んで2階に寝て、妻がベルを鳴らしても起きて来ないこともあった。
そんな中で、意思伝達装置から本人の意思は変わらなかった。
延命を選ばなかった人。
人工呼吸器につながれてこれ以上夫に負担をかけたくない。
妻は、夫にはこれ以上耐えられないだろうと判断しているようだった。
夫婦だから、伴侶の精神力・包容力・介護力がわかるのだろう。
病気を止めることもできない、
痰の吸引ができるヘルパーを24時間置けるサービスもない、
子どももおらず、両親も遠方で高齢、
入院はしたくない、家にいたい。家で死にたい。
ある夜、本当に家で亡くなった。
私はお風呂に入って家にいたが、ヘルパーのサービス提供責任者と亡くなったばかりの本人に会いに行った。
一緒に体を拭いて、よく頑張りましたねと皆で声をかけた。
夫はそんな私達の後ろで、「あっと言う間だったよ。先生もあっけないもんだね、あんあもんかね」と行き場のない気持ちを医師にぶつけていた。
それでも、レスパイト先の病院ではなく、自宅で亡くなったことは本人の希望通りになって良かった。
このままでは夫の身体や精神面が持たないというところで訪れたような死だった。
年上女房である彼女の最期の思いやりだったのかな。
生き続けることを止めたとき
死はあなたの傍にはっきりと寄り添い
そのときまでじっと見つめてくれる
さびしさとか
つらさとか
くるしさとか
あきらめとか
いつの間にか通り過ぎて
ただ、そこにある
本当はどんな人の傍にも死はあるのだけれど
日常では感じることができない
いつもいつも本当はすぐそこにあるんだよ
こんにちは
と
さようなら
死はひっそりと誰にも気づかれることなく
いつもそこにある