試された人
生きていくのは苦しく辛い、高齢者は口々に言います。
「早くお迎えが来れば良いのに」
「まだ迎えが来ない」
「長生きし過ぎた」
「死んだ方がマシ」
「辛い」
それを聞く家族は、またかとうんざりする人もいるし、
当惑するばかりの人もいるし・・・
聞く側にとっては、答えようのない高齢者の訴えなのです。
認知症の妻を持つ夫は、有名企業を定年退職した後、自治会長や老人会の役員などを長年務めあげた立派な人物でした。
輝かしい時代の話しは、会話の中でもよく夫の口に上り、その時はとても満足そうでした。
妻は、何でもきちんとメモを取り勉強していると自負する夫と正反対の性格。
自宅では、デイに来ている時とは違って不安そうな曇った表情を見せることも多い。
何でもきちんとしっかりこなしていた夫が年齢とともに弱音を吐くようになった。
持病もあり、自分のことで精一杯になってきたのだろう。
最初に会った3年前より明らかに気力・気概の衰えを感じる。
夫はあまりにも体がきついので主治医に半ば強引に2人での入院を頼み込み、2週間ほど入院したところ、心底ほっとしたらしく、それでもやっぱり家が良いという気持ちにはならず、入院がとても良かった、楽だったと言った。
(検査結果は特に治療の必要性なし)
そのため私は、では2人で入れるところと言えば、サービス付き高齢者住宅か、住宅型有料老人ホームになります、見学に行ってみたらどうかと話した。
そうしたところすぐに家族で見学に行かれ、夫は大変気に入り、「是非入りたい」と言い、今度の日曜日に契約に行くとトントン拍子に話しが進んだ。
なんだかそのスピードに若干の違和感があるも、納得できれば良いのでは?入ったらもう出れないということはなく、しばらくマンションはそのままにしておいても良いだろうし、1日3食もう夫はご飯を炊かなくても良い、妻の薬の心配もなくなる、常に誰かがいてくれて外出や外泊もできて、ある程度自由がある生活・・・
もう数日後に契約に行くという日、近くに住む娘からメール。
「やっぱりやめました。よくよく考えて決めました。まだ家で何とか2人で生活できるんじゃないかという結論です。いろいろご迷惑かけてすみません」。
何でも生まれ育ったこの父と母が住んだ思い出がいっぱい詰まったマンションを手放すのが嫌だなと思ったとのこと。
今じゃない、そう思ったと娘。
それで良いと思いますよ。
これまでも何かと気にかけて買い物して持って行ったり、2人を外食に連れ出したり、仕事をしながら関わってきたのだが、これまで以上に父母の元を訪問しようと思ったようである。
娘の言葉に押され、それこそ力強い娘の後押しがあり、有料老人ホームへの入居が泡となって消えた。
有料老人ホームの管理者には私の方からも詫びを入れ、これまでのやり取りは一言で言えば無駄になったわけだが、私の役割が決して徒労に終わったというわけではない。
本当に良かったと思うのは、いつでもどんな結果でも本人・家族が納得して決めたということに尽きる。
決してわざと試したわけではないだろうが、その結果、各々の気持ちが浮き彫りになり流れが変わった。
それは小さな出来事かもしれないが、親子の絆が深まった瞬間だったかもしれない。
またそれは生の終焉に向けてのつかぬ間かもしれないが、望んだ自宅での生活の続き・・・
生ききる姿を子どもに孫に見せることが年寄りの役割なのではないかと私は思う。
それは死ぬ瞬間につながることであり、死にざまを見せることが私の役割なのだと感じるこの頃である。