働く人・働けない人・働かない人
人は、働く人と働かない人に分けられる。
働かない人の中には、働きたくても働けない人と、働くことは出来るが働くのを止めた人がいる。
何を持って働くのかと考え出すと難しいので、ここでは単に「労働」としよう。
労働とは、1.からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと。「工場で―する」「時間外―」「頭脳―」
2.経済学で、生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費。
私はこれまで何一つ病気をしたことがないということは無いが、何とかこれまで働けるだけの肉体と精神を持ち続けられてきたんだろう。
それはたまたま偶然の賜物だったのかもしれない。
鬱の扉を開けなかっただけ、
癌ができても知らないうちに消えてたのかもしれない。
または、癌が今身体の中にあるが、たまたまおとなしくしているだけなのかもしれない。
そして、私が働くのは私自身のため。
誰かのために働いているわけではないし、誰かに感謝されたくて働いているわけじゃない。
働くということはそういうこと。
彼の母親を担当することになり、彼と初めて会ったのは、彼自身を苦しめていた父親が亡くなった後だった。
彼はいつの頃からかわからないが、父親に怒られ貶められて育った。彼に会って当時父親は何とかこの子をどうにかしなければと思っていたのかもしれないと思ったが、それにしてもその父親が無知だったとしか思えない。明らかに何らかの障がいを持っているだろう息子。それなりの公的機関に相談したら、父親も納得して接することができたんではないか。怒ったり叩いたりしても、何も解決しなかっただろうに。
母親はそんな息子をずっとかばってきた。
その母親が認知症となったため、父親から解放されても日常生活が滞りなく継続できるのか心配された。
しかし、近所に住む叔母が何かと気にかけ、協力もあるようだった。
そんなある日、「お金がないので生活保護を受けようと思います」と彼から電話があった。
「でも車を持ってたらダメなんでしょう?」と。
いやいやいやいや、その車叔母さんのでしょ。
たまに借りるぐらい、持ってないで良いんですよ。
「あーそうなんですか」と安堵した声。
息子がベンツ乗ってる保護受給者もいるのに。
勿論難なく保護の対象となり、支給が始まった。
そんな彼なので、的の外れた質問をしてきたり、一般的なこの年齢の成人男性の会話とは少し様子が違っていたが、それは彼の素直さだったり純真さだったりで。
いつの間にか私に対する警戒心が全く無くなり、いつもニコニコしている彼。
でもずっと訪問していると、何か引っかかるものが…
もしかして、何か宗教してます?
「はい、〇〇です。良いですよ〜」。
保護が始まり安心していたのだが、そのうちまた「お金が足りない」と電話してくるようになった。
「携帯代が高いのでどうしたら良いですか?」。
「オムツが足りないんです。どうしましょう?」。
「病院が送迎が無いのでどうしたら良いか」。
携帯は携帯会社に相談して下さい。
高齢者福祉サービスで受けているオムツ給付は足りない場合は自費で購入して下さい。
そこの病院から家までワンメーターですけど?それも無いんですか?
とストレートの質問も彼にはできる。
往診という形に変えることはできますよ。
とにかく、保護費を増やして貰いたかったようだった。
オムツは1日2回しか変えないからいつも漏れていた。
これまでずっとかかっていた主治医だったので、息子のことも良く分かってもらっていたし、結局彼も病院は変えなかった。
お金が足りない…
その宗教の場所に行くには電車賃が必要で、本部?は他県にあるようだった。 ネットで調べてみた。 調べなくても彼に聞けばもっと詳しく喋ってくれる…
部屋の壁に筆ペンで書いた戒律がある。
「これがなかなか守れないんですよね〜」。
うん、守れなくても良いからオムツ変えてくれない?
1日2回とかあり得ないよ?
デイの食事代払いたくないからって、デイを休ませてませんか?
お母さんにとって唯一の社会的交流の場を取り上げないでくれや〜
お母さんの介護に必要なお金まで何処ぞやの宗教に注ぎ込まないでくれや〜
と心の中で呟く。
彼も幸せになりたくて、信心しているんだろう。
勿論多くの宗教で信心している末端の殆どの人々の暮らしは質素です。
彼も同様です。
保護課の担当者に電話。
「年金が多いので保護費は全額は出ていない」。
働く人は働けば良いし、何らかの理由で働かない人は働かなくて良いと思う。
働かない人の多くはきっと働けないんだろうと思う。
でもね、公的なお金の使い道はまずは生活や介護が優先されるべきなんじゃないかな?
でも、宗教が生活の全てだったら?
同居する者の意志が不確かな場合は?
ネグレクトまでいかないにしても、信心深さが守るべき弱者を後回しにしてしまっていませんか?
人は何かを信じすぎると、かえって何かを見失なってしまうのではないか。
私は私の感覚を信じていきたい。
心の声が行き先を教えてくれる。