縛られる人
3月とは言え、冷たい風を受けながら薄暗くなっていく駅までの道を歩く。
この角を曲がったところに父と娘は暮らしていた。
その父親が亡くなった家で彼女はまだ1人でいるのだろうか。
あちこちの家から夕飯の臭いがしてくる。
彼女もまた父親のために毎日食事を作っていた。
わがままな父はデパートのお惣菜さえも気に入らず、不平不満を言うことも多かった。でもそんな父親がおいしそうに食べることが励みになっていたことも事実だろう。
たまに娘のことは自分の妻になり、娘はまだ帰って来ないのかと言ったりした。
有名企業に勤めている彼女は、仕事を続けながら父が待つ家に毎日帰った。
月1回の訪問を毎月連絡しても一度では返事が無く、4~5回はざら。
理由はいつも「ごめんね、忙しくて」。
きちんとした会社に勤める社会人でも、約束という義務を果たせない人もいる。
それで会社では部下に注意したり指導したりできるものなのだろう。
彼女は本当に悪気なく、約束ができなかった。
会社の中での自分と、家の中での自分、地域での自分、
人は知らぬ間に使い分けているのかもしれない。
自由奔放に生きてきた父親に振り回された娘。
どこにも自由に行けなかった娘。
入院したと知らせを受け、面会に行った。
彼は仰向けに寝て、私の顔を見て何か喋った。意味は分からなかったが、何か諦めているようだった。ふと手を見るとその両手は柵に縛られていた。
痛いでしょうと言うと、そうでもない、仕方ないというようなことを言った。
その晩、食事を喉に詰まらせて亡くなった。
人は最期を選べない。
「生きているのも辛い」
「早くお浄土に行きたい」
「もう逝った方が楽」
「早くお迎えに来て欲しい」
高齢者は口々に言う。
そう、簡単に口にする。
それを聞く家族は、おそらくうんざりしている。
困ってしまう。
だからと言って自ら薬を飲まないとか、病院に行かないとか、ご飯を食べないとか、
そんなことを止めることはしないから。
死ぬまで生きなきゃいけないんですよ。
死ぬまで生きなきゃいけないのに。
それまでは全てのことを、自分の身に起こる全てのことを自分で引き受けなきゃいけない。
生きることを覚悟する。
生きなければならない、死ぬまでは。
死ぬことを覚悟する時が必ず訪れる。