聞こえない人
おばちゃんはとてもとても耳が遠かったのです。
自分をなじる声も、怒られていることも、それはそれは聞こえなかったので、
おばあちゃんはある意味幸せでした。
私が話しかけると、あははと大声で笑い、何もかもが、大したことじゃないのよと言っているようでした。
後妻で入った店を1人で切り盛りしてましたが、子どもに恵まれなかったので、夫が亡くなった後は跡継ぎの養子夫妻と暮らしていました。
昔から自分たちに「ありがとう」などと言ったことは一度もなかったと言う夫妻は、段々とおばあちゃんが疎ましくなってきました。
夫妻が旅行に行くために、3ヶ所のショートステイ先と契約しました。
家に3人でいるより、夫婦にはしっかりストレスを発散してもらうことが何より必要だと思いました。
おばあちゃんがこのまま家に居たいのか、それとも施設に入りたいのか、高度の難聴と認知症の進行のため、明らかな意向確認ができない状態でした。
ある日、自宅で転倒し腕を負傷。
痛ましい状態をデイで確認。
痛かったでしょうと言っても、きょとんとして「痛くない」と言います。
転んだことも、痛いこともわからなくなっていて、夫妻は「こんなになったら家では見れない」と言い、あっという間に、いえ速やかに在宅生活が終了しました。
してもらえないと不満を持ち、してもらってはそれを当たり前とうそぶく。
期待通りに相手が答えないことに腹を立てる。
自分の思い通りにならなければ、満足できないのだろうか。
これまでの長い歴史の中で築き上げられてきた結果は、今の全てである。
それに対して是も非も無く、評価するものでもない。
私達はちっぽけな人間であり、誰しも老いて使えなくなる。
老いることは悲しいことなのだろうか?
使えなくなるということは、価値がなくなるということなのだろうか?
何を言っても笑って自分の気持ちを話すことをしなかったおばあちゃん。
夫妻に見せる顔と他人に見せる顔は確かに違ったのだろう。
聞こえない世界で生き続ける。
自分の状況を全て受け入れるということ。
そのことそのものが、本当の幸せなのかもしれない。